ガーベラのつぼみ

K二丁目

本の感想と、日常と。

賢いギバー

 

 

『GIVE & TAKE』(2014/アダム・グラント)を読んだ。

 

 

 

▼アダム・グラント

ペンシルバニア大学ウォートン校教授。組織心理学者。1981年生まれ。同大学史上最年少の終身教授。『フォーチュン』誌の「世界でもっとも優秀な40歳以下の教授40人」、『ビジネスウィーク』誌の「Favorite Professors」に選ばれるなど、受賞歴多数。「グーグル」「IBM」「ゴールドマンサックス」などの一流企業や組織で、コンサルティングおよび講演活動も精力的に行う。(本書より)

 

 

人間関係において、人は基本的に三種類のタイプに分けられるという。「ギバー」、「テイカー」、そして「マッチャー」だ。ギバーは他人を中心に考えて、相手が何を求めているかに注意を払う。テイカーは自分を中心に物事を考える。

 

 

マッチャーはというと、公平という観点を重視し、与えることと受け取ることのバランスをとろうとする人だ。すなわち、ギブアンドテイクで行動する人のことを言う。そして、多くの人はマッチャーに属している。

 

 

アダム・グラントの調査によれば、最も不利益を被っているタイプはギバーなのだそうだ。いわゆるお人好しで、人から都合のいいように利用されやすい。短期的にみれば、テイカーやマッチャーのほうが大きな利益を得ている。

 

 

ただ、最も成功や幸福を掴んでいる人もまた、ギバーなのである。

 

 

ギバーは他者に惜しみなく与える。それが助言であれ、人の紹介であれ、相手にとって良いことを行動に移すのである。そしてそれは他の者にも影響を及ぼし、その人のコミュニティに変化をもたらす。長期的にみると、ギバーは組織力の向上に大きな影響を与え、そして正しく評価されたギバーは称賛される。「情けは人のためならず」とあるように、何かを与えたその人からの直接の見返りでなくとも、後で大きな見返りを得ることになるのだ。

 

 

とはいっても、多くの人がマッチャーとしての行動を振舞うのは、「正直者が馬鹿をみる」ことがあるからだろう。ギバーは、テイカーに食い物にされてしまう場合がある。テイカーは打算的で自分の利益を優先するから、自分の周りにギバーがいれば、利用してやろうと考えるのだ。そうなったギバーは、その分自分に費やす時間が減り、成果も低下し、周りからも正しい評価が得られず、不遇をうけることになる。どうすればテイカーから身を守ることができるだろうか。

 

 

本書では以下のように言っている。

 

 

テイカーとつき合うときには、マッチャーになればいいのだ。ただし、最初はギバーでいたほうがよいだろう。信頼は築くことこそ難しいが、壊すのは簡単だからだ。それでも、相手が明らかにテイカーとして行動したら、ギバー、マッチャー、テイカーの三タイプを使い分け、ぴったりの戦略をとるのが得策だろう。”

 

 

 

人に何かをしてあげたとき、喜ぶ姿をみると、自然に自分もうれしい気持ちになる。賢いギバーとして、人生をまっとうしたいものだ。

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 

 

 
 

感情は利用するものだった…?

 

先日仏教についての本を読んだとき、「諸行無常」という、すべての物事は因果によって生じている、という考え方を知った。

 

 

この考え方は抵抗感なく受け入れられた。しかし、心理学の本でも読んでみようか、と手にしたアドラー心理学の本では、真逆の考え方が示されていた。それは「原因論」に対して、「目的論」と呼ばれている。

 

“人は原因によって後ろから押されていきているのではなく、目標を設定しそれを追求する、と考えるのです。言い換えると、「どこから」ではなく「どこへ」を問うているのです。”

『アドラー心理学入門』(1999/岸見一郎)

 

感情が原因で行動が結果であるという見方ではなく、ある目的のために感情を「使う」のだという。相手を従わせるために怒りがあるのであって、怒っているから相手を従わせようとするわけではない。同情を引くために悲しみがあるのであって、悲しんでいるから同情を引こうとするわけではないということだ。

感情が自分の中に生まれて、その感情によって行動をするわけではなく、「相手にしてほしい」ことの為に感情を引き起こすのである。

 

この考え方がピンとこないのは、普段聞く言葉とは逆になっているからだろう。「怒りにまかせて…」や、「悲しみのあまり…」と表現するように、感情によって行動が生まれているのだと、自然に思っている人がほとんどではないだろうか。

 

感覚的にわからない時は、落ち着いて考えてみよう。あるケースを想定してみる。

 

――2年前の冬のある日。大学に通うさとみは、朝から憂鬱だった。それは風邪を引いたからでもなければ、腹痛がきていたからでもない。なんとなく、悪い予感がしていたのだ。さとみの悪い予感は過去2回あった。中学時代、部活の大会で決勝戦の前日に感じたとき、高校時代、第一志望の大学の、合否発表の朝に感じたとき。どちらも、後には厳しい現実をつきつけられてきた。しかしその日は、「悪い予感」があるだけで、他には何も特別なことはない。明日も、1週間後にも、特に何も「予定は」していなかった。

そのまま何もなく過ごし、お風呂に入って、さて寝ようかと、TVを消し、暖房にタイマーをかけ、目覚まし時計を確認したそのとき、携帯電話がなる。画面には「裕也」という文字が書かれていた。

電話をとってから10分後、3年間付き合っていたその男性との最後の会話を終えた。さとみの頬には涙がつたい、乾くか乾かないかの時、親友のみな美に電話をしていた。中学時代も高校時代も、そしていまも、いつも頼る人は決まっていた――

 

さて、私に文章力がないことが再確認されたが、まず最後の段落の部分、ここを切り取ってみるとこうなる。

 

彼氏に振られる

→悲しむ

→同情されたい(電話する)

 

これをふつうに想定される因果関係をあてはめるとこうなるだろう。

 

彼氏に振られる・・・原因A

→悲しむ・・・結果A・原因B

→友人に電話する・・・結果B

 

しかし、目的論にあてはめるとこうなるのである。

 

彼氏に振られる・・・原因A

→同情されたい(電話する)・・・結果A・原因B

→悲しむ・・・結果B

 

ではなぜ「同情されたい」と思うのか。それについては、そもそも人間は他者との関係の中で生きており、同感を求めることは人間の根源的欲求、言い換えると承認欲求が備わっているからだという。

これはアダム・スミスも『道徳感情論』で述べていたことであった。

 

ただここで、「同情される」環境になかったらどうだろうか。先のケースで言うと、つらいとき同情してくれていたみなみがもしいなかったら、そして他に相談する相手もいなかったら、彼氏に振られても悲しみは全くないのだろうか。感覚的には「そんなことはない」と思えるし、自分の経験からいっても、人には打ち明けない悲しい出来事は少なくなかったと思う。

 

生物学的な根拠がありそうだが、この続きはまた今度にしよう。

 

 

 

 

ピクサーから学ぶイノベーションの起こし方

 

近年よく耳にする「働き方改革」は、労働生産性の向上が目的の一つであるが、将来的にはAIによる劇的なIT革命によって、「生産物そのもの」が大きく変わっていくだろうと予想される。すなわち、どのような付加価値を生み出すかに、今までよりも知恵を働かせなければならなくなる、ということだ。

 

とはいえ、それが何か、簡単にわかれば苦労はしない。藁にもすがる思いで手に取った本があるので、備忘録的に書いておく。その本は、『ピクサー流創造するちから』(2014年、著:エドウィン・キャットムル)だ。

 

エドウィン・キャットムルとは

ピクサー・アニメーション・スタジオ共同創設者。ピクサー・アニメーション、ディズニー・アニメーション社長。コンピュータ・グラフィックス分野における功績により、ゴードン・E・ソーヤー賞を含む5つのアカデミー賞を受賞している。ユタ大学でコンピュータ・サイエンスを専攻し、博士号を取得する。

 

本書は、ピクサーの現社長であり創設者であるエドウィン・キャットムルが2014年に書いた書籍である。元々自らがアニメをつくる夢を持ち、その夢を形作ったキャットムルだが、初のロングアニメーション(トイストーリー)が大成功に終わった1991年から1年後、「感動するアニメを造り続けるピクサーを守っていく」という新たに情熱をそそぐ夢を抱き、その苦悩と奮闘する姿が描かれるとともに、守るべき思想や守るための具体的施策が本書に盛り込まれている。

そのうちの一部を、とりあげてみよう。

 

第1章 生命を吹き込む

“クリエイティブな発想において、役職や上下関係は無意味だ。”

“たまたま正方形のテーブルを置いた小さめの会議室でミーティングをしたときに、[中略]そのテーブルではお互いの顔がよく見え、意見交換も自然に活発になり、いつもより相互作用が働いた”

 

会議室に13年間置かれていた長細い会議机が、「全員でミーティングをする」こととは逆のメッセージを発信しており、阻害している要因に気付いた出来事である。役職者用に置かれていた名札も排除し、意見出しの活発化を図った。

 

 

第1章 生命を吹き込む

―ユタ大学とコンピュータ・グラフィックス

“学生は研究室に迎え入れられると、作業スペースとコンピュータをあてがわれ、あとは学生自身の興味に任され、好きなテーマを追求できた。そのおかげで、互いに協力し、支え合う刺激的な環境が生まれ、私はのちにピクサーでこの再現に努めることになる。”

 

キャットムルが入学したユタ大学大学院の研究室での出来事である。テーマを自分で自由に決めることができ、かつ同級生(仲間)も同様な環境にいることが研究の質に大きく影響したそうだ。(同級生のうち、フォトショップ・PDFで知られるアドビを共同設立した者がいたり、オブジェクト指向プログラミング等数多くの分野を開拓した者がいたりと、こうした仲間の存在が重要だったと述べている)

 

第1章 生命を吹き込む

―コンピュータ・アニメーション映画への道

“クラスメイトたちと同じように、私が挑戦した研究が物になったのは、守られ、異種混合で、非常に挑戦しがいのある環境に身を置いていたからだ。実りある実験の場をつくるためには、多様な考えを持った人材を集め、その自主性を後押しすることが必要なことを学部の指導者たちはわかっていた。”

 

第4章 ピクサーらしさ

―いいアイデアといいスタッフ、どちらが大切か

“アイデアをきちんとかたちにするには、第一にいいチームを用意する必要がある、優秀な人材が必要だと言うのは簡単だし、実際に必要なのだが、本当に重要なのはそうした人同士の相互作用だ。どんなに頭のいい人たちでも相性が悪ければ無能なチームになる。”

 

言葉にすると、タイバーシティ&インクルージョン、ということであるが、その言葉を謳う多くの組織は、言葉が先行してしまって、実態が伴っていないことがほとんどではないだろうか。創造性を発揮するために指導者に求められるのは、指示ではなく環境づくりだということがうかがえる。

 

 

第8章 変化と偶発性

―“カールじいさん”の紆余曲折

“苦悶を通じてしか発見はない、だから変化は味方だ―この考え方に不安を覚える人も多いだろう。[中略]失敗したときのコストに比べれば、マイクロマネジメントがもたらす被害ははるかに小さいように思える。しかし、その必要な投資を避け、賭けに負けたことを知られるリスクを恐れてコントロールを強化すれば、創造性を妨げる頭の固いマネージャーに成り下がってしまう。”

日本は特に多いように感じられるが、失敗を極端に嫌うものが多い。それはプライドからくるものだったり、上への「忖度」がそうさせているのかもしれない。

 

第10章 視野を広げる

―(1)全員で問題解決(デイリーズ)

“つくりかけの作品や中途半端なアイデアを人に見せて恥をかきたくないし、監督の前でまぬけなことを言いたくない。そこでピクサーではまず最初に誰もが途中段階の作品を見せ合い、誰もが提案できることを教える。それが理解できると、恥ずかしい気持ちが消え、恥ずかしい気持ちがなくなると、人はもっと創造性を発揮できるようになる。問題解決の苦悩を安心して話し合えるようにすることで、皆が互いから学び、刺激を与え合う。その行為そのものが人間関係を実り多いものにする。”

 

子どもの時ですら、人は恥をかきたくないと思っている。しかし、一方で、信頼のおける友人や家族には、むしろその恥を相談というかたちで積極的に発信することもある。自尊心を傷つけず、自分の信頼を低下させないとわかる場であれば、恥を捨て去り、創造性を発揮することができるのではないだろうか。

 

 

理屈が通じないことを理解できない人

 

最近、転職市場が活発になってきたということを自身の周りをみても強く感じる。私が働いている職場にも中途入社をする人が増えている。自分の課では、上司も含めると、私以外の6名全員が中途入社だ。(再確認して驚いた!)

 

業界や会社によって風土は大きく異なるに違いなく、個人の価値観もまた大きく異なる。新卒で入った会社では、違和感を感じたとしても「まあそういうものか」と自分を納得させることは比較的簡単だ。しかし、今までと別の会社で働くとなると、ある程度社会人経験を積んでいたとしても、そのギャップをなかなか受け入れられない人もいる。

 

この「ギャップを受け入れられない人」の内、一部はその人の主張の強さによって確認できる。自分の理屈が正しいと判断したときに、なんとかこれを通そう、とやっきになるのである。一見冷静に見えて、自分の主張が理解されそうにないと、感情的な面が大きく顔を出す。

 

彼らは、こう思っている。「あの人たちは理屈が通っていない。なぜ自分の主張が理解されないのだろうか。きっと、あの人たちには、その能力がないのだ。日本の悪しき風習で、能力と関係ないことで上に上がった人たちなのだから。」と。まったくそのままではないが、こういったことを口にしていた。その時私が抱いたのは、なんとも嫌な、負の感情であった。

 

ただ、こういった考えを私は否定することができなかった。というのも、私自身似たようことで悩まされていたのだ。(今も別に解消されたわけではない)

そのため、筋の通った強い主張には、おおいに賛同する。が、しかし、上にはなかなか受け入れられないという現実がある。一見理屈は通っていそうなのだから、受け入れられないのは、おそらく感情的な部分によるのだろう。そして私も、内容には賛同しながらも、いざ第三者としてその場を目の当たりにすると、負の感情を抱いてしまった。あれは、いったい何だったのだろうか。

 

その答えがこの本に言語化されていたように感じた。『アダム・スミス『道徳感情論』と『国富論』の世界』(2008年)(著:堂目卓生)

 

『国富論』、もとい「神の見えざる手」という言葉で有名なアダム・スミス。彼は市場の調整メカニズムという一般原理を発見した経済学者であるが、元々は倫理学を研究していた。生涯で出版した書物二つのうちのもう一つ、『道徳感情論』では、社会秩序を導く人間本性を明らかにしようとした。それは、次の文章で始まる。

 

“人間がどんなに利己的なものと想定されうるにしても、明らかに人間の本性の中には、何か別の原理があり、それによって、人間は他人の運不運に関心をもち、他人の幸福を―それを見る喜びの他には何も引き出さないにもかかわらず―自分にとって必要なものだと感じるのである。”

 

人間は利害関係がなくても他人に関心をもち、他人の感情や行為に同感しようとする。この後、私たちが他人も私たちに関心をもつことを知り、それが社会秩序に必要なルールの形成し…という、人間の諸感情と社会秩序の関係性について論じられていく。

 

また、アダム・スミスの考える幸福とは平静と享楽にあるとし、そのために必要なものはこう考えている。

 

“健康で、負債がなく、良心にやましいところのない人に対して何を付け加えることができようか。この境遇にある人に対しては、財産のそれ以上の増加はすべて余計なものだというべきだろう。そして、もし彼が、それらの増加のために大いに気分が浮きだっているとすれば、それは最もつまらぬ軽はずみの結果であるに違いない。”

 

 

アダムスミスは、健康で、生きていくだけの十分な収入があれば、あとは平静を保つことで幸福につながるとしている。

 

この記事の冒頭の話に戻すと、強い主張をする者、言い換えると「理想に向かい、急激な改革を進めようとする者」は、なぜ困難に思える壁に立ち向かい、時には波風を起こそうとし、平静とは逆に向かうような行動をとるのか。

アダム・スミスは、こういった人たちを「体系の人」と呼び、こう記している。

 

“体系の人は、[中略]自分が非常に賢明であると思いやすく、しばしば、自分の理想的な統治計画の想像上の美しさに魅惑されるため、計画のどの部分からの小さな逸脱も我慢できない。彼は、その計画と対立するであろう大きな利害関係、あるいは偏見に対しての何の注意も払わず、自分の計画を完全に、あらゆる細部において実現しようとする。”

 

これはもちろん大きな物(国、政府)を対象としているが、我々の身近に起きているできごとにも当てはまるように思える。すなわち、職場で、改革的主張を行うものは、「あるべき姿」にとらわれて、今の姿、すなわちそこで働いている人の「気持ち」をないがしろにしてしまう傾向があるのである。結果、理解が得られない、つまり「同感」を得られず、自らを不幸にする。

 

私がその「体系の人」の主張を聞いたとき、負の感情を抱いたのは、「いままでのやり方が否認された」と感じた上の人たちの感情、そしてまた「体系の人」が感じた「否認」に同感してしまったからなのだろう。

 

 

仏教について

 
 20代も後半に差し掛かると、周りの友人や会社の同期が結婚し始めてくる。それらに出席したのはおよそ6回ほどだろうか。これからもっと増えてくると思う。
 
最初こそ出席に関しては、知らなかったこともあり少々緊張していたり、いったい何を準備すればよいのかもわからなかった。同じく出席する友人や同期に聞いてみるのもなんだか一般教養が欠けていると思われそうで嫌だったし、疎遠になった親に聞くのも少し気が引ける。それでも数回経験すればもう慣れたもので、気になるのは御祝儀や二次会費用の工面だ。
 
 
そしてもう一つ、頭を悩ませるのが御祝儀袋に書く名前だ。私はお世辞にも字がきれいとはいえず、慣れない筆ペンでバランスの悪い自分の名前を書くのが億劫だった。
 
それが先日もあった結婚式でまたその時がやってきたのだ。パソコンで字をコピーして印刷する、という荒業もあるが、これからもこの場面がおとずれると考えると、やはり上手くなっておきたいという気持ちが湧き出てきた。
 
 
そこで字を練習することにしたのだが、何を思ったか、写経を始めた。般若心経の写経である。一文字一文字書き写す。次第にその意味を調べ始める。今まで気にしたことのない仏教について気に始める。こうしていつも目的への道を外れて時間を浪費してしまう癖は、もう一治らないかもしれない。
 
 
仏教はキリスト教やイスラム教など、他の宗教と違い神を信じない。これはもともとのブッダの教えであり、ブッダは我々と同じただの人間だったのだ。
 
元々古代インドの王子として生まれたゴータマ・シッダッタという人間が、何不自由のない暮らしをしていたところ、老人や修行者の姿をみて、急に老いることや病にかかること、死ぬことに対して恐怖を感じ始めた。今まではそんなことに悩むことはなかったのだ。
 
その恐怖から脱したい思いで、29歳に出家することになる。森の中に入り、6年間苦行を続けた。しかし、あるとき、その苦行に意味がないことに気付き、苦行をやめたあと、悟りを開きブッダ(目覚めた者)となるのである。
 
ブッダは、老いや病、死など、世は苦しみで満たされているという。そしてその苦しみは、我々人間の煩悩によって生まれる。この煩悩をかき消すことで、苦しみのない状態になることができるのだと説いた。
 
 
要は、苦しいことや悲しいこと事態が世にあるのではなく、捉え方によって苦しみにも悲しみにもなるということである。こんな簡単に言ってしまうのは恐れ多いが、つまりはそういうことだろう。
 
ブッダの思想は基本的にネガティブなのである。苦しみから逃れることが幸せであり、フラットな状態こそが目指すべき姿なのだと。
 
これを現代に生きる者はどうとらえればよいのだろうか。今までの経験上、楽しみそのものはやはりあったと感じる。友人との交流や趣味に没頭している時間、はたまた苦しい練習や仕事の果てに成果がでたときなど、その時嬉しい、楽しいと感じた気持ちは嘘ではないと信じたいし、これからの人生もそれを望むのが普通なのだとも思う。
 
 
「仏教は心の病院」、と仏教学者の佐々木閑(しずか)さんは表現している。医者はわざわざ向こうからやってこない、ケガや病に罹った人がやってきて、それに対して応える(治療する)。仏教も必要のない人にわざわざ押し付けることはせず、心に苦しみを感じたものに応えるものなのだと。
 
 
 
<参考図書>
 

橘玲さんの『言ってはいけない残酷すぎる真実』を読んで

 

タイトルには「残酷」とあるが、真実を希望にするか絶望にするかは人次第だと僕は思う。本書は、「で、自分はどうするのか?」ということを考えられる人にとっては、巷に溢れる自己啓発本よりよっぽど好影響を与えてくれる本となるのではないだろうか。努力をすることに不安や行き詰まりを感じているときに、冷静になって読みたい本だ。

 

筆者は冒頭で、"これは不愉快な本だ。だから、気分よく一日を終わりたいひとは読むのをやめたほうがいい。"と添えたうえで、進化論を基にした言ってはいけない真実が世の中をよくするために必要だと主張している。

 

 

 

 

本書は三章ある。

1.努力は遺伝に勝てないのか

2.あまりに残酷な美貌社会

3.子育てや教育は子供の成長に関係ない

 

遺伝に関して、身長や体重といった体形、陽気か陰鬱かといった性格、運動の得意不得意やセンスの有る無しといった能力、それから依存症や精神病といった類のものも親から子へ遺伝するという研究結果があるという。また極めて社会的に重要な犯罪についても、その傾向は存在すると主張する。

数字としては、身長の遺伝率は66%、体重の遺伝率は74%、統合失調症や躁鬱病の遺伝率は80%。

一卵性双生児と二卵性双生児を対象とした調査により、論理的推論能力の遺伝率は68%、IQの遺伝率は77%ということもわかっているという。また、よく知能が高い人種としてユダヤ人があげられるが、確かに平均が100に対してユダヤ人のIQの平均は112~115と1標準偏差ちかく高いのだという。これは、過去のヨーロッパにおけるユダヤ人差別が影響し、金貸しで生計を立てざるを得なかったことによる進化なのである。

 

このあたりから思うのは、これらが事実だとして、だからどうということはない、ということだ。論理的思考能力による技術開発競争や、運動能力を競うオリンピック競技にしたって、遺伝による敗北を受け入れなければならないのはいわゆるトップ層である。グローバル社会において世界と戦わなければいけないのは事実であるが、全員がユダヤ人と競争しているわけでもなければ、強敵はユダヤ人だけということでもない。

また、欧州の人たちに比べて、日本人の平均身長は低いが、スポーツ以外でそれによる敗北を受けているのは果たしてどれほどの人がいるだろうか。(女性の獲得という競争において欠点はあるかもしれないが、日本人であるがゆえに得られる利点と相殺できるだろう)

 

面白かったお話しをもう一つ。"幸福のホルモン"と呼ばれるセロトニンは、その濃度が高いと楽天的に、低いと神経質になるのだが、このセロトニンを運搬するトランスポーター遺伝子には、伝達能力が高いL型とS型があり、LL型、SL型、SS型の3つに分けられる。日本人の70%がSS型で、LL型は2%しかいないのだという。

 

こうして考えると、性格を含む遺伝というのは確かに存在し、努力でどうにもできないことがあるのは事実かもしれないが、そう思ってしまってはそこで試合終了だ。血液型と性格の科学的根拠は見つかっていないようだが、日本人は体現しているように思える。事実よりも、自分が何を信じどう行動するかが重要なのである。

 

こう考えるのは、あまりに楽観的だろうか。

 

最後に、教育についての話も興味深かった。別々に育てられた一卵性双生児の内、片方はプロのピアニストになり、片方は音符すら読めなかった。プロのピアニストに育ったのは、音楽教師を親にもつ子どもではなく、楽譜の読めない親を持つほうだったのだ。

それはなぜだろうか。

女性と男性の考え方の違い

 

 

 アラン・ピーズ、バーバラ・ピーズ著作の「話を聞かない男、地図が読めない女」を読んだ。本作はタイトルから想像される通り、男女の違いを明らかにした本で、科学的根拠に基づいた男女差説明書といえる。

 「やはりそうだったか」と、普段自分が感じていたことの裏付け的説明もあれば、「そういうことか、どうりでわからなかったわけだ」と非感覚的な新事実を突きつけられることにもなる。

 

男性に愛されるには

 男はいつも女のこととなると頭に浮かぶのはセックスのことばかりである。これは「愛」と「セックス」が、男では切り離されているからだ。

 一方女性は愛とセックスはセットなのである。だから、男性が愛してもいない女性とセックスするのは、女性には考えられない出来事なのだ。「ああ、男の人って、いくつも愛を持っているのね」。愛は一つ、セックスはいくつも、なのである。

 

 

 

 

 このように、男性は浮気をする生き物だ、とひと昔前ではまるで当たり前のように言われていた。男性は愛していない人ともセックスができるから、本能の赴くままその行為自体に興味が沸く。

 では、なぜ愛する人を差し置いて、他の女性とセックスするのか。人間だけでなく、他の雌と行為をしたがるのは、生物的本能からくるもので、当たり前のことなのだ。多くの子孫を残さなければならない。

 

 男性に自分だけが愛されるには(他の女性とセックスさせないためには)どうすればよいか。それは正直無理かもしれないが、男性が普段どう考え、女性の何をうっとうしく感じてしまうのか、本書を読んで理解すれば、その答えは見つかるかもしれない。

女性を喜ばすには

 女性を喜ばすことは男性にとって難しい。愛する女性が何を考えているのか、何を望んでいるのか、論理的思考で考えても無駄である。そこには理屈などない。

 女性はよく悩み相談をするだろう。しかし、この相談という言葉をそのまま受け取ってはいけない。男性はすぐに「問題解決」をしたがる。そしてその問題とは、「出来事」のことだと思っている。車が動かない、エアコンが壊れた、仕事がうまくいかない、等々。

 

 これ自体が問題ではないのである。問題は、何もない。あえて挙げるとすれば、話を最後まで聞いてあげなければいけない、ということが問題だ。

 男性は一つのことしか考えられない、途中で脱線しようものなら、話を遮ろうとする。それでは女性の不満をためてしまうだけなのだ。女性は多くのことを並列で考えることができる。女性の会話スピードに追い付けるとは、思わないことだ。

 

 では、どうすればよいのか。わかっているふりをすればよいのである。女性と話してて、途中でこんなことを言われたことはないだろうか。「ねえ、ちょっと聞いているの?」そう、聞いてるかどうかを聞いてるのであって、こうは言わない。「ねえ、ちゃんと理解してる?」

 

 女性の信頼を得ることができれば、それすなわち女性を喜ばすことなのだ。うまくいけば、ことに及ぶことができるかもしれない。そのヒントが本書にあるはずだ。トライアンドエラーが重要。

否応なしに関わらなければいけないのが職場

 男女の脳の違いは歴然としているが、プライベートなら何も無理して関わる必要はないかもしれない。しかし、職場ではこうはいかないだろう。男女の違いというのはなかなか当事者を困らせる。

 女性の社会進出は何十年も前から謳われているし、近年では日本でもダイバーシティという言葉が流行りだし、男女だけでなく様々な人種を受け入れ、創造的な価値を創出しようと躍起になっている。だがいざ、意見を集めましょうというときの会議は決まって、上司の顔色を伺う男性に数で圧倒されてしまうことがほとんではないだろうか。自発的、直感的なアイデアをうまく引き出し、そういった人材を活用することに適しているのは、チームワークと相互協力を重んじる女性なのである。

 

 だが、声の高さや感情的な話し方が周りを幼稚だと受け止めかねない。外国の人には若干謙虚になる日本人だが、その直積的な物言いに対しては結局、日本のことを良く知らないのだ、と受け入れかねたりもする。

 

 

 多様性が求めている一方で、受け入れる準備ができていないのである。それも仕方ない、男女の違いがあることは認めているものの、どう違うかを経験則でしか測っていないからだ。人材をうまく使うには、人材を良く知らないといけない。男女の違いを理解したときには、人材活用のレベルをあげること間違いないだろう。