ガーベラのつぼみ

K二丁目

本の感想と、日常と。

理屈が通じないことを理解できない人

 

最近、転職市場が活発になってきたということを自身の周りをみても強く感じる。私が働いている職場にも中途入社をする人が増えている。自分の課では、上司も含めると、私以外の6名全員が中途入社だ。(再確認して驚いた!)

 

業界や会社によって風土は大きく異なるに違いなく、個人の価値観もまた大きく異なる。新卒で入った会社では、違和感を感じたとしても「まあそういうものか」と自分を納得させることは比較的簡単だ。しかし、今までと別の会社で働くとなると、ある程度社会人経験を積んでいたとしても、そのギャップをなかなか受け入れられない人もいる。

 

この「ギャップを受け入れられない人」の内、一部はその人の主張の強さによって確認できる。自分の理屈が正しいと判断したときに、なんとかこれを通そう、とやっきになるのである。一見冷静に見えて、自分の主張が理解されそうにないと、感情的な面が大きく顔を出す。

 

彼らは、こう思っている。「あの人たちは理屈が通っていない。なぜ自分の主張が理解されないのだろうか。きっと、あの人たちには、その能力がないのだ。日本の悪しき風習で、能力と関係ないことで上に上がった人たちなのだから。」と。まったくそのままではないが、こういったことを口にしていた。その時私が抱いたのは、なんとも嫌な、負の感情であった。

 

ただ、こういった考えを私は否定することができなかった。というのも、私自身似たようことで悩まされていたのだ。(今も別に解消されたわけではない)

そのため、筋の通った強い主張には、おおいに賛同する。が、しかし、上にはなかなか受け入れられないという現実がある。一見理屈は通っていそうなのだから、受け入れられないのは、おそらく感情的な部分によるのだろう。そして私も、内容には賛同しながらも、いざ第三者としてその場を目の当たりにすると、負の感情を抱いてしまった。あれは、いったい何だったのだろうか。

 

その答えがこの本に言語化されていたように感じた。『アダム・スミス『道徳感情論』と『国富論』の世界』(2008年)(著:堂目卓生)

 

『国富論』、もとい「神の見えざる手」という言葉で有名なアダム・スミス。彼は市場の調整メカニズムという一般原理を発見した経済学者であるが、元々は倫理学を研究していた。生涯で出版した書物二つのうちのもう一つ、『道徳感情論』では、社会秩序を導く人間本性を明らかにしようとした。それは、次の文章で始まる。

 

“人間がどんなに利己的なものと想定されうるにしても、明らかに人間の本性の中には、何か別の原理があり、それによって、人間は他人の運不運に関心をもち、他人の幸福を―それを見る喜びの他には何も引き出さないにもかかわらず―自分にとって必要なものだと感じるのである。”

 

人間は利害関係がなくても他人に関心をもち、他人の感情や行為に同感しようとする。この後、私たちが他人も私たちに関心をもつことを知り、それが社会秩序に必要なルールの形成し…という、人間の諸感情と社会秩序の関係性について論じられていく。

 

また、アダム・スミスの考える幸福とは平静と享楽にあるとし、そのために必要なものはこう考えている。

 

“健康で、負債がなく、良心にやましいところのない人に対して何を付け加えることができようか。この境遇にある人に対しては、財産のそれ以上の増加はすべて余計なものだというべきだろう。そして、もし彼が、それらの増加のために大いに気分が浮きだっているとすれば、それは最もつまらぬ軽はずみの結果であるに違いない。”

 

 

アダムスミスは、健康で、生きていくだけの十分な収入があれば、あとは平静を保つことで幸福につながるとしている。

 

この記事の冒頭の話に戻すと、強い主張をする者、言い換えると「理想に向かい、急激な改革を進めようとする者」は、なぜ困難に思える壁に立ち向かい、時には波風を起こそうとし、平静とは逆に向かうような行動をとるのか。

アダム・スミスは、こういった人たちを「体系の人」と呼び、こう記している。

 

“体系の人は、[中略]自分が非常に賢明であると思いやすく、しばしば、自分の理想的な統治計画の想像上の美しさに魅惑されるため、計画のどの部分からの小さな逸脱も我慢できない。彼は、その計画と対立するであろう大きな利害関係、あるいは偏見に対しての何の注意も払わず、自分の計画を完全に、あらゆる細部において実現しようとする。”

 

これはもちろん大きな物(国、政府)を対象としているが、我々の身近に起きているできごとにも当てはまるように思える。すなわち、職場で、改革的主張を行うものは、「あるべき姿」にとらわれて、今の姿、すなわちそこで働いている人の「気持ち」をないがしろにしてしまう傾向があるのである。結果、理解が得られない、つまり「同感」を得られず、自らを不幸にする。