ガーベラのつぼみ

K二丁目

本の感想と、日常と。

感情は利用するものだった…?

 

先日仏教についての本を読んだとき、「諸行無常」という、すべての物事は因果によって生じている、という考え方を知った。

 

 

この考え方は抵抗感なく受け入れられた。しかし、心理学の本でも読んでみようか、と手にしたアドラー心理学の本では、真逆の考え方が示されていた。それは「原因論」に対して、「目的論」と呼ばれている。

 

“人は原因によって後ろから押されていきているのではなく、目標を設定しそれを追求する、と考えるのです。言い換えると、「どこから」ではなく「どこへ」を問うているのです。”

『アドラー心理学入門』(1999/岸見一郎)

 

感情が原因で行動が結果であるという見方ではなく、ある目的のために感情を「使う」のだという。相手を従わせるために怒りがあるのであって、怒っているから相手を従わせようとするわけではない。同情を引くために悲しみがあるのであって、悲しんでいるから同情を引こうとするわけではないということだ。

感情が自分の中に生まれて、その感情によって行動をするわけではなく、「相手にしてほしい」ことの為に感情を引き起こすのである。

 

この考え方がピンとこないのは、普段聞く言葉とは逆になっているからだろう。「怒りにまかせて…」や、「悲しみのあまり…」と表現するように、感情によって行動が生まれているのだと、自然に思っている人がほとんどではないだろうか。

 

感覚的にわからない時は、落ち着いて考えてみよう。あるケースを想定してみる。

 

――2年前の冬のある日。大学に通うさとみは、朝から憂鬱だった。それは風邪を引いたからでもなければ、腹痛がきていたからでもない。なんとなく、悪い予感がしていたのだ。さとみの悪い予感は過去2回あった。中学時代、部活の大会で決勝戦の前日に感じたとき、高校時代、第一志望の大学の、合否発表の朝に感じたとき。どちらも、後には厳しい現実をつきつけられてきた。しかしその日は、「悪い予感」があるだけで、他には何も特別なことはない。明日も、1週間後にも、特に何も「予定は」していなかった。

そのまま何もなく過ごし、お風呂に入って、さて寝ようかと、TVを消し、暖房にタイマーをかけ、目覚まし時計を確認したそのとき、携帯電話がなる。画面には「裕也」という文字が書かれていた。

電話をとってから10分後、3年間付き合っていたその男性との最後の会話を終えた。さとみの頬には涙がつたい、乾くか乾かないかの時、親友のみな美に電話をしていた。中学時代も高校時代も、そしていまも、いつも頼る人は決まっていた――

 

さて、私に文章力がないことが再確認されたが、まず最後の段落の部分、ここを切り取ってみるとこうなる。

 

彼氏に振られる

→悲しむ

→同情されたい(電話する)

 

これをふつうに想定される因果関係をあてはめるとこうなるだろう。

 

彼氏に振られる・・・原因A

→悲しむ・・・結果A・原因B

→友人に電話する・・・結果B

 

しかし、目的論にあてはめるとこうなるのである。

 

彼氏に振られる・・・原因A

→同情されたい(電話する)・・・結果A・原因B

→悲しむ・・・結果B

 

ではなぜ「同情されたい」と思うのか。それについては、そもそも人間は他者との関係の中で生きており、同感を求めることは人間の根源的欲求、言い換えると承認欲求が備わっているからだという。

これはアダム・スミスも『道徳感情論』で述べていたことであった。

 

ただここで、「同情される」環境になかったらどうだろうか。先のケースで言うと、つらいとき同情してくれていたみなみがもしいなかったら、そして他に相談する相手もいなかったら、彼氏に振られても悲しみは全くないのだろうか。感覚的には「そんなことはない」と思えるし、自分の経験からいっても、人には打ち明けない悲しい出来事は少なくなかったと思う。

 

生物学的な根拠がありそうだが、この続きはまた今度にしよう。